昭和45年11月22日    特別報酬委員


 例えばお絞りを出されますでも、あんまりこう絞りすぎたのを、では、いけませんし、というてまたゆるくてじくじくするごたっとでもいけませんしね。絞り具合が、その人によって違うんですね、やはり。もうてんでカラッと絞って、もうすきもなかごたっとを出されたってね、お絞りの有難いのがありません。と言うてこうやったらじっくり・・?ごたあっとでもいけません。
信心もやっぱり一つのそういうまあ、しっとりとしたというかね、もうしっとりとした信心が必要なんですよ。どうしても一つあの絞りすぎらず、というて絞り足らないことのないような信心をね、頂きたい。
今日ある方が、町長選挙があるということを聞かれてね、ほいで今日があの投票日だ。
お願いさせて頂いて、先生当選しましょうか、ちうて、さあ、当選するようにお願いしよりますと私は申しましたけれどね。当選しますよと、だめですよと、私それを聞かなければね、なんか信心の有難さがないような信心はもう一番げってんだと思うね。私はもうほんとに思う。ここではその私自身が実際にお知らせ頂くもんですからね。頂くもんですから聞かんなら損ちゅうごたあるふうで聞きなさる人があるもんですから、それを聞いたんではもう信心のね、もうほんとに信心のいわばしっとりしたものはないですよ。
さあ、なんちゅうですか、ね、まあ赤ちゃんが生まれると、医者がこう言うと、母ちゃんが助かるでしょうかと、と言うような願いをやっぱその方なさるんですよ。
助かるか助からんかちゅうことを先に聞きたいわけなんですよね。だからもう信心がそれであったらもういよいよいけませんです。また合楽にお参りするとそれを教えて頂くというようなことであったら、つまらんです。
ですからね、私はね、もうほんとにお取次ぎを頂いてお願いをして右左はもうあなたにお任せしているという信心ですね。私はこう言う信心が、しっとりとした信心と言うのじゃなかろうかと。それでその不安がないといういわばおかげですね。ただ片びんの願い捨て的なね、ことだから、なんか物足りないということ言うのではなくてですたいね、ほんとにそこから私は生まれてくる信心、お取次ぎを頂いて生まれてくるしっとりとしたおかげ。というてならたとえば、お取次ぎを頂いて御結界から流れてくるその御理解と言うものでね、ピシッとおかげを受けるなとかね、パッとこう腹の決まるくらいな信心のひとつのなんて言うか厳しさと言ったようなものももちろんなからにゃいけませんですね。たとえば私が金光様のお言葉、あの幹三郎のことをあの内腫ですか、と仰ったという言葉聞いたときにね、こりゃ肉腫じゃないと心の中にピシッと感じられるようなものですよね。かというてならただ今申しますように、さあ出産のお願いをするとに母親が助かるだろうかと聞かなければ安心がいかん様な信心であったりね、または今日のあの選挙が当選するじゃろうか、せんじゃろうかと言ったようなことをね、聞きたいような信心じゃたらもう全然こりゃもう、私はもうほんとつまらんと思うですね。
そこんところをひとつあのお互いがね、またそういう意味合いじゃなくて、今日佐田さんがなにかぴしゃっとこう私の意見なら意見、ここを改まりなさいと言われるところを言うて頂きたいちゅうごたあるふうな意味のことをま、仰ったんですけれどもね、それをその聞くことも有難いです。けれどもそんならほんとにそんなね、あのこれはもう自分が一番分かっているとですよ。言われる、たとえばならお取次ぎを頂いて・・?頂いてもね、何とはなしにその上から掻いたようなことしか頂きませんです。
自分自身がね、そこんところを頂かして頂いて、そん時に今の御理解を頂いたんです。絞りすぎらずね、と言うて絞りたらんようなことがないように、と言うことだったんですけれど、ならちっと参りすぎよるとじゃなかじゃろうか、お供えしすぎよるとじゃなかろうか、そげなこっちゃないです。
絞りすぎよる、そういうこっちゃない。自分の心の上にですね、ほんとにちっとしぼりすぎよんなさるという感じがいたしますですね。ですからそこんところをね、どういうようなところ、というてなら私が皆さんにこげんところが絞りすぎるというて佐田さん達の場合なんかはもう今言うように助かりよる、助かりよらんかと言ったような問題のところはもうとーに通りこえておられますし、なら当選するじゃろうか、せんじゃろうかと言ったようなことやらは、もう当の昔に卒業しておられますし、そうじゃない。もっと意味合いに、違った意味合いにおいてのしっとりとしたものが、いわば今日、の佐田さんには求められておるという感じ。あのお互いの信心のうえにもやはりですね、もっとしっとりしたもの、そこんところがね、なんとも言えんおかげになっていくという。
夕べあの椛目の田中の、ちょうどおかげを頂いてから、いわば新たに命を頂いて十年のお礼のお祭りを夕べございまして、夕べ参り合わせている方達に御直会にちょっとお茶いっちょ頂いて頂きたいちゅうもんですから、そげんさして頂いた。
したらちょうど永瀬さんとか熊谷さんも一緒にお参りしてから、一緒に残って頂いて、ま、どうせ終のバスでお帰りになればいいでしょうからて時間があったから、さ、ところがその出られたところがもう終のバスが行っておったんじゃなかろうかというところです。はー、今出たときにひょっと、終のバスじゃったじゃろうかと言うようなことだったらしいです。昨日はあちらにもう電気も付いてないし真っ暗な中で永瀬さんと二人で、ま、ならも一辺合楽さんかえってから、永瀬さんがあん純子に、娘さんです、来てもろうちから呼びに来てもらおうちちからいよんなはるところへすっと自動車が来て止まったとこう言うわけです。昨日純子さん、なーんかお友達んところに行っとりましたもん、昨日。行きがけお届けしていきよった。したらその暗い所でそのこうごめいたり、人影を見たもんですから、はあ、違わん合楽会の人たちじゃろうと思うてから止まったらなんとお母さんと熊谷さんじゃったと言うわけなんですね。
ほいでほんとに今純子ばちいいよんなさったつが、その純子がです、もうそこにき止まってる。
はぁ、なるほど親先生が残れと仰った、いやもうご無礼しますというようなところをですね、こうしっとりとしてものを感じきらんです、頂かれないですね。
そこんところに親先生がああ言うて頂くけん、と言うてそこに残らして頂くところへ、そこにそういう何かしっとりしたようなね、情、そのものを感じるでしょうが。なるほど親先生のおっしゃる通りにしときさえすればいいといったようなものが信心の内容にね、より豊になって行かなければいけない。そういうようなことにやっぱりしっとりとと言ったようなことになるのじゃないでしょうかね。どうぞ。